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 富士山信仰と吉田の御師について


金鳥居富士

富士山を信仰し、登山する人々は昔から全国に存在しました。室町時代の後期には、すでに多くの人々が富士山へ登拝しており、修行者以外の一般の登山者を「富士道者」と呼んでいました。
その中で、北口の吉田を目指してやってくるのは、主に江戸を中心とした関東地方の人々です。

富士山北口本宮富士嶽神社境内全図-1


江戸時代中期に富士山を信仰する富士講が組織化されて江戸庶民の暮らしに深く浸透していき、江戸末期には江戸八百八講といわれるほど隆盛を極めました。

江戸から吉田までの道筋は、甲州街道を西に進んで大月宿で分岐し、谷村から上吉田に至る「富士道」を通るのが一般的でした。
上吉田の御師町の入口には、導者改役所と金鳥居が設けられ、大きな目印となっています。

夏の開山期になると富士講の信者たちは、富士登山のために北口の吉田へやってきます。この信者たちの世話や指導をしたのが御師と呼ばれる人たちです。

 富士山北口・吉田の御師は上吉田に御師町を形成して集住していました。
御師とは社寺と富士導者の間にたって、導者に代わって祈りをあげ、お札を配り、参詣の際には自らの住宅を宿所として提供して、その信仰を広める役割を果たした人々のことです。

御師は富士山信仰の指導者であり、又宿泊所の提供者であり、富士講を広める普及者としての性格を持っていました。
江戸時代末期の最盛期には富士山北口上吉田に86軒の御師宿坊が存在しました。

 御師の実際の生活は、経営する宿坊での信者から宿泊料や山役銭、おはらい料、お礼、お布施などの収入によって維持されていました。御師と信者は師弟関係にあり、一度縁を結ぶと、信者は他の御師の宿坊に泊まることはありません。

御師にとっては、いかに大勢の信者を自分の勢力下に置くかが大切で、シーズンオフになると江戸を中心に檀家廻りに精を出したということです。

 隆盛を見た富士講とそれにかかわる御師は、明治維新以後の文明開化の新しい社会の風潮に乗り遅れ、徐々に衰退の一途をたどりました。今は御師の宿坊街として、家のたたずまいや富士講の歴史を物語る資料や調度品などが、往時の面影を見せています。

そんな歴史を踏まえた町に、富士山が世界文化遺産に登録されたことを機会に、現代の新御師宿坊として世界の旅人が集まるゲストハウスを建設しようと考えています。


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